この小袖は、昭和39年(1964)町内の芦刈山収蔵庫の長持ちの底からかなり傷んだ状態で発見されました。昭和45年(1970)重要文化財に指定され、昭和49年(1974)に修理したところ、左襟裏の麻地に<天正十七年(1589)己丑(つちのとうし)年六月吉日>の墨書が見つかりました。6月ということは祇園御霊会用に寄進された可能性が考えられます。町内には織田信長拝領の小袖があると伝えられてきましたが、天正10年(1582)本能寺で亡くなっているので、信長本人ではなくても、その親族縁者から寄進された可能性は残されています。
桃山時代から幾度か仕立て直しを繰り返したようですが、痛みが激しくなってきたため、考証の上、当初の姿に復元新調することになり、令和4年(2022)株式会社龍村美術織物にて製作しました。
いつ頃までこの重文小袖を御神体に着せていたのかは定かではありませんが、明治2年(1869)の『衣類入日記』には6番目に<綾地緞子段織小袖一枚>とあり、その存在が確認できます。しかし明治9年(1876)の『八坂社私祭会鉾車山車所属品目録及由来書』には記載がありません。また重文指定を受ける前の昭和44年(1969)京都市文化観光局文化課編の『祇園祭山鉾由来及びその他附属品目録第1集(16基分)』には<蝶牡丹文片身替段綾目小袖>と<萠黃白段綾牡丹に蝶模様小袖>と、なぜか2種類の名称があり、「山鉾の中でも最古の衣装である」と記載されています。
昭和49年(1974)以降、京都国立博物館に寄託していることから、祇園祭の宵山期間(7月14日から16日)だけ、町内に戻り、芦刈山の会所飾りの目玉として衣桁にかけた姿で、宵山に訪れる見物客の目を楽しませてきました。
年に一度とはいえ、空調設備のないお飾り宅で展示しておりましたが、肩口がガーゼ状にすり減り、衣桁にかけるだけでも小袖自体の重みで生地が裂ける可能性があり、数年前からはやむを得ず、博物館から持ち帰った箱に折りたたんだ状態で展示していました。
5年ほど前、重文小袖の復元新調をしようという声が町内にあがり、京都国立博物館の山川先生のご教示をいただき、祇園祭山鉾連合会へ申請書を提出しました。ようやく2021年度になり、小袖の復元新調検討会と称して、コロナ禍のなか、主に京都国立博物館の地下収蔵室で人数制限を設けて専門委員の先生、文化庁、京都府文化財保護課、京都市文化財保護課、祇園祭山鉾連合会、そして株式会社龍村美術織物、芦刈山保存会の役員が数回集まり議論を重ねました。2022年の年明けには株式会社龍村美術織物の工場にて、小袖の復元新調の工程を確認しました。小袖の復元新調とともに水衣も新調しました。来年度に向けて、この小袖と水衣に合わせた大口袴も新調する予定です。
最終的な色選択は芦刈山保存会に一任されましたが、織り上がっていく色の組み合わせを見ると、オリジナルの色彩との違いに驚くばかりで、最初は不安を禁じ得ませんでした。これが桃山時代の色彩感覚・美意識、すなわち桃山ルネサンスの果実なのか... まさしくシスティーナ礼拝堂の煤まみれの天井画を洗浄・修復したあとに甦ったミケランジェロのオリジナルな色彩が現れたときの驚きです。重文小袖の色構成そのものも実に大胆で華やかでしたが、さらに輪をかけて優しさにあふれた鮮やかな色調が現れたのです。この小袖の復元新調事業は、現代の日本人が忘れかけていた美意識を再び呼び覚ましてくれるいい機会になりました。祇園祭にかかわるということは、こういうこと、つまり日本の心を再発見することだと実感したしだいです。
毎年7月、祇園祭が訪れるたびに、七夕の織姫と彦星が出会うように、年に一度だけ芦刈山町内に里帰りしてくれた重文小袖。天正17年から430年を経て、ようやく復元新調されて元の輝きを取り戻しました。新しいレプリカにバトンタッチすることで、今後は誰にも煩わされることなく、博物館の収蔵庫の片隅で、静かにそして安全に余生を過ごすことができるようになりました。「今まで長らくありがとう、重文小袖。今後はゆっくり休んでください」と感謝の気持ちでいっぱいです。
新調された小袖は、2022年7月14日よりお飾り宅にて公開予定です。
京都国立博物館 山川暁 学芸部・企画工芸室長の解説をいただきました。
現在、紺地亀甲龍鳳凰文様の下に着用
現在、水衣の下に着用している小袖
現在は損傷が激しいため、使用されていません。
修復前
平成12年修復後
江戸期
平成12年修復後
現在、小袖の上に着用
現在、着用している袴
前垂と後帯
「紺地龍木瓜巴文様刺繍」
(ちゅうけい)