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芦刈山について
   
由来  /  起源  /  構造   / 出典
芦刈山について
芦刈山について

京都は日本のまほろば、祇園祭りは京都の華

芦刈山は渋いけれど雅な山です

その芦刈山町に住んで早や三年、私はいつのまにか千年の歴史をさかのぼり、 神話や物語の世界に遊んで、飽きることがありません。 時に、地球がこの芦刈山を中心に回っているように感じる、 不思議な体験を楽しんでいます。

芦刈山町住人 山折 哲雄(平成15年)

芦刈山の由来

芦刈山の起源

応仁の乱(1467~1477)前
1100年以上の歴史がある祇園御霊会で、山や鉾の記録が現れるのが700年前の室町時代ごろからです。「祇園社記」の「応仁の乱前分」によると、「すみよし山 綾小路・油小路と西洞院の間」とあり、現在の芦刈山町の位置に「住吉山」という現存しない山があったことが分かります。また「あしかり山 四条猪熊」、「あしかり山 錦・烏丸と室町間」「あしかり山 錦小路東洞院」との記述もあり、現在は山の建たない3箇所から「あしかり山」という山が出ていたと考えられます。同じく「応仁の乱後再興分」には「綾小路、西洞院と油小路の間、あしかり山手かき」とあり、現在の芦刈山は少なくとも明応5年(1496)の山鉾再興の時に創建されたと推測されます。その後、幾多の火災や戦乱による被害をくぐり抜け、焼失と再建を繰り返しながら今日に至っています。
応仁の乱後の再興
「応仁の乱後再興」のくだりには「綾小路、西洞院と油小路の間 あしかり山手かき」とあり、現在の芦刈山は少なくとも明応5年(1496)の山鉾再興の時に創建されたと推測されます。また最初の鬮取り式が行われたのが明応9年(1500)で、「二十三番 あしかり山 綾小路と西洞院の間」とあり、37基で復興した山鉾の内、さきの祭り27基の第23番目であったことが分かります。

芦刈山の構造

芦刈山の大きさ

長さ:4.04m    高さ:約5m    幅:2.3m    重さ:約0.64トン

出典

 謡曲「芦刈」
謡曲「芦刈」は平安時代の歌物語「大和物語」に基づくといわれています。しかし「大和物語」では乳母として都にあがった妻は貴人の後妻となり、芦刈人足となった夫とつかのまの再会を果たして着物を与えますが、すでに他人の妻の身、男を哀れみながらも都に帰ってしまいます。ほかに芦刈説話を扱った古典もいずれも悲しい結末で、能楽「芦刈」だけがハッピーエンドなのです。
謡曲「芦刈」は一般に男物狂(狂乱物)と呼ばれ、二百番近い能の中で唯一、夫婦の心の触れ合いを賛美した演目で、夫婦の愛情を肯定した異色作です。しかし芦刈山の御神体が老翁の姿であるのに対して、謡曲の日下左衛門は「若き男」と書かれています。また謡曲の季節は春ですが、芦刈山の趣向は秋の風情を表していて、「芦刈」は秋の季語であるといった違いもあります。
「大和物語」第148段「蘆刈」、天暦5年(951)ごろ
天暦5年(951)ごろ
謡曲「芦刈」の原典といわれていますが、都に上がった妻は宮仕え先で貴人の妻となってしまい、元の夫と再会後、自分の着物を残して去ってしまいます
「拾遺和歌集」巻第9 雑歌
寛弘2~4(1005~1007)ごろ成立(「大和物語」のダイジェスト)
「今昔物語集」巻30第5話
「身貧しき男の去りたる妻、摂津の守の妻となる話」
男が落ちぶれたのは前世の報いであり、芦を刈る哀れな姿がリアルに表現されています
宝物集」巻第3、八苦の1つ「求不得苦」
求めるものの得られない苦しみの一例として引用(「大和物語」のダイジェスト)
「源平盛衰記」巻36、阿巻
夫は貧しい人に物を施す慈悲心の深い妻を邪険に思って追い出したあげく、芦を刈る身に落ちぶれます。
「神道集」巻7の43「芦刈明神の事」
貴人の妻となった女が芦を刈る元の夫に再会、2人は海に飛び込み、難波の浦の芦刈明神となります。男の本地は文殊師利菩薩、女は如意輪観音として。
谷崎潤一郎「蘆刈」「吉野葛・蘆刈」
「君なくて」の和歌をモチーフに、淀川の芦の生い茂る中州を舞台に繰り広げられる夢幻能形式の物語。谷崎らしい傑作。
海音寺潮五郎「蘆刈」「王朝」
「今昔物語集」に基づく翻案。芦刈説話と大盗賊の話を合体させています。
杉本苑子「蘆刈りの唄」(「今昔物語ふぁんたじあ」講談社文庫)
不器用な宮中楽人が、見初めた下女を借金をしてまで買い上げて妻にするものの、楽器盗難の嫌疑をかけられ楽所を追放される。生活は困窮し、妻は大納言邸へ奉公に。その後は「大和物語」や「今昔物語」と同様です。

絵に見る芦刈山

昔から洛中洛外図や祇園祭礼図屏風などに山鉾巡行図の様子が描かれてきましたが、代表的な鉾や曳き山などはよく登場するものの、その中に芦刈山の姿を見つけることは滅多にありません。ここにご紹介する絵は、そのように数少ない芦刈山の姿を描いた、現在確認できるもののすべてです。あと粟田の青蓮院にあったとされる杉戸絵は、いまのところゆくえ知れずで確認できていません。